
トップページ > カテゴリー「人吉・球磨」 での検索結果(1642件ヒット)

まもなくスタートします・・・
矢岳駅=人吉市。肥薩線はSLが退役し、ディーゼルカーが登場した (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和48年09月06日
撮影:1973年9月
矢岳駅=人吉市。肥薩線はSLが退役し、ディーゼルカーが登場した (麦島勝
肥薩線の人吉吉松間。昭和47年3月に運行開始されたディーゼルカーを撮影に訪れたカメラマン=人吉市 (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和47年03月02日
撮影:1972年3月
ディーゼル車=人吉市。肥薩線の人吉吉松間
しゅんせつ船。球磨川水系は汽水域(淡水と海水が混じる塩分が少ない)で塩分除去が早いと有名になりコンベアーを使ったしゅんせつ船が活躍した=八代市 (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和46年05月23日
撮影:1971年5月
しゅんせつ船=八代市
刺し網干し=相良村。川辺川と球磨川が合流する地点は鮎漁の絶好のポイント。「刺し網」は夜に張るが、昼間はその準備に忙しい。 (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和45年07月18日
撮影:1970年7月
刺し網干し=相良村。川辺川と球磨川が合流する地点は鮎漁の絶好のポイント。
パーマ屋さん=人吉市。パーマネントが流行し、人吉では大きなドライヤーをかぶり悠然と雑誌を読んでいるのでびっくりした。改めておしゃれにも勇気が必要かと思った (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和45年03月24日
撮影:1970年3月
パーマ屋さん=人吉市。パーマネントが流行し、人吉では大きなドライヤーをか
貨物列車・SL=人吉市。肥薩線人吉~吉松間は山岳地帯を運行するので「山線」と呼ばれた。貨物列車は前後のSLが白煙をあげ走行した (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和40年10月11日
撮影:1965年10月
貨物列車・SL=人吉市。肥薩線人吉~吉松間は山岳地帯を運行するので「山線
球磨川全域が豪雨にに見舞われた。八代市の荻原町の堤防決壊で民家が流出し、国道3号も大混乱した (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和40年09月24日
撮影:1965年9月
球磨川の洪水=八代市
踏み切り待ち=八代市。八代駅から貨物専用の球磨川駅へは1日数回の貨物列車が通った。その間、いそがしい通行人もがまんしながら待ってくれた (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和40年09月02日
撮影:1965年9月
踏み切り待ち=八代市。八代駅から貨物専用の球磨川駅へは1日数回の貨物列車
ボート遊び。球磨川発船場の対岸、水の手橋近くに手こぎボートが係留され、若いカップルが楽しげにオールを漕いでいた=人吉市 (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和40年08月05日
撮影:1965年8月
ボート遊び=人吉市留
球磨川水源=水上村。水源地(別写真・同日撮影分)から150メートルほど下ると、ここにも「球磨川水源」の表示がある (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和40年05月03日
撮影:1965年5月
球磨川水源=水上村
球磨川水源=水上村。九州山地の中央部、標高約1200メートルの急峻な山の斜面から吹き出している。 (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和40年05月03日
撮影:1965年5月
球磨川水源=水上村。九州山地の中央部、標高約1200メートルの急峻な山の
稚鮎すくい=八代市。春になると海から鮎の稚魚の群れが、川に帰り上流へ遡上(そじょう)する。それを堰が阻むので、球磨川の遙拝瀬で漁協員が網ですくい、上流に運んで放流した (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和40年03月21日
撮影:1965年3月
稚鮎すくい=八代市。春になると海から鮎の稚魚の群れが、川に帰り上流へ遡上
旅は道連れ=人吉市。観光バスは異なるが隣りに駐車し、見知らぬ客が、窓越しに球磨焼酎の献杯、返盃。心は和む。 (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和38年11月05日
撮影:1963年11月
旅は道連れ=人吉市。観光バスは異なるが隣りに駐車し、見知らぬ客が、窓越し
球磨川下り=球磨村。軋む船べり、ガッガッと舟底は岩を噛む。船頭は満身の力を櫓に込めて自然の力を巧みに操る (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和38年05月05日
撮影:1963年5月
球磨川下り=球磨村。軋む船べり、ガッガッと舟底は岩を噛む
川下り=人吉市。急流球磨川下りの出発には、安全祈願のため水神さんにお供えした水を各舟にふりかける風習が今も続いている (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和38年03月10日
撮影:1963年3月
川下り=人吉市。急流球磨川下りの出発には、安全祈願のため水神さんにお供え