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昭和32年7月27日 熊本県下に豪雨 被害を受けた鹿児島本線西浦踏切付近=飽託郡北部町 ※熊本市貢町の米村千津男さん提供
撮影:1957年7月
昭和32年7月27日 熊本県下に豪雨 被害を受けた鹿児島本線西浦踏切付近=飽託郡北部町(当時)
昭和14年4月 熊本市立高等女学校1年1組。後方は採釣園、左手は米田邸宅=熊本市坪井 ※玉名市の高木久美子さん提供
撮影:2000年1月
昭和14年4月 熊本市立高等女学校1年1組。後方は採釣園、左手は米田邸宅=熊本市坪井
収穫を控えた黄金色の水田の中に、黒米でできた「八代」の巨大な文字がくっきり=八代市 撮影日:平成21年09月02日
撮影:2009年9月
掲載日:2009-09-04
収穫を控えた黄金色の水田の中に、黒米でできた「八代」の巨大な文字がくっき
夕方の光に照らされた水田=南阿蘇村 撮影日:平成21年08月24日
撮影:2009年8月
掲載日:2009-09-09
夕方の光に照らされた水田=南阿蘇村
米国オレゴン州からの三川鉱災害見舞いの手紙届く=荒尾市の荒尾第五中学校 撮影日:昭和39年01月08日
撮影:1964年1月
米国オレゴン州からの三川鉱災害見舞いの手紙届く=荒尾市の荒尾
色づいた古代赤米の穂先が風に揺れる歴史公園鞠智城周辺の水田=山鹿市菊鹿町 撮影日:平成21年09月03日
撮影:2009年9月
掲載日:2009-09-04
色づいた古代赤米の穂先が風に揺れる歴史公園鞠智城周辺の水田=山鹿市菊鹿町
昭和35年4月 不知火町(現宇城市)の沿岸部に並ぶ作業小屋。戦後、米に輸出された不知火産の小ぶりな地ガキは「カキの女王」とも評される「クマモトオイスター」の種ガキとなった=不知火海沿岸 ※宇城市松橋町の大森正哉さん提供
撮影:1960年4月
昭和35年4月 カキうち作業小屋=不知火海沿岸
昭和8年 オート三輪に積まれた、たる詰めの球磨焼酎、銘柄は「米の露」。後ろはレンガ造りの蔵=球磨郡渡村(球磨村) ※人吉市鬼木町の中竹民子さん提供
撮影:1933年1月
昭和8年 国鉄肥薩線渡駅前、球磨焼酎を積むオート三輪=球磨郡球磨村
昭和19年夏 運動場での防空壕掘り作業をする子どもたち。米軍の空襲が始まり、県は学校防衛の強化策を指示した=玉名郡梅林村高等小学校 ※熊本市神水の田尻五助さん提供
撮影:1944年8月
昭和19年夏 運動場での防空壕掘り作業をする子どもたち=玉名郡梅林村高等
町名小史・清水町 明治17年に室園、万石、山室、高平など10カ村が合併、飽託郡清水村が誕生。清水村の名称は八景水谷の湧(ゆう)水にちなんで付けられた。昭和14年に熊本市に合併、清水町になり発展を続け、町の中心付近には八景水谷水源地、陸軍幼年学校などが設立された。戦後は幼年学校跡に米進駐軍が駐留、昭和31年、米軍撤退後は自衛隊第八師団司令部、北熊本駐とん部隊が居を構えた。新熊本バイパスの開通などを契機に新地、高平、万石などに大型団地がお目見えした。=熊本市八景水谷 撮影日:平成17年10月03日
撮影:2005年10月
陸上自衛隊第八師団司令部が入る北熊本駐屯地=熊本市八景水谷
昭和49年3月ごろ 白川河畔で親せきや家族がそろっての花見がこれから始まる。家族で作った桜の花を自宅から持参=熊本市十禅寺町 ※下益城郡城南町の藤米田紀代子さん提供
撮影:1974年3月
昭和49年 白川河畔で花見の準備。花は自宅から持参=熊本市十禅寺町
昭和29年2月 元大リーグ選手との新婚旅行で日本を訪れ、米軍キャンプを慰問したマリリン・モンロー。一目見ようと大変だったという=福岡県 ※熊本市出水の田口新二さん提供
撮影:1954年2月
昭和29年2月 米軍キャンプ慰問のマリリン・モンロー=福岡県 ※熊本市出
日本の棚田百選の一つ扇棚田の田植え。傍らにはアマチュアカメラマンの姿も見られた=阿蘇郡産山村
撮影:2006年5月
日本の棚田百選の一つ扇棚田の田植え。傍らにはアマチュアカメラ
環境保護庁 建物外観=米国(水俣病関連)
撮影:2006年2月
環境保護庁 建物外観=米国(水俣病関連)
長崎で被爆した稲の子孫「原爆稲」やアジア・アフリカへの支援米を植える鶴城中学校の生徒たち=山鹿市 撮影日:平成17年06月28日
撮影:2005年6月
アジア・アフリカへの支援米を植える鶴城中学校の生徒たち=山鹿市