トップページ > キーワード「船」 での検索結果(890件ヒット)
まもなくスタートします・・・
舟作り=八代市。船首から船尾までのカーブに合わせて「手斧(チョウナ)で削られた「竜骨」が組み立てられる。 (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和35年09月18日
撮影:1960年9月
舟作り=八代市。船首から船尾までのカーブに合わせて「手斧(チョウナ)で削
三角港の漁船 (中村弘之氏撮影) 撮影日:昭和35年01月
撮影:1959年12月
三角港の漁船 (中村弘之氏撮影)
三角港の漁船群 (中村弘之氏撮影) 撮影日:昭和35年01月
撮影:1959年12月
三角港の漁船群 (中村弘之氏撮影)
三角漁船の一部 (中村弘之氏撮影) 撮影日:昭和35年01月
撮影:1959年12月
三角漁船の一部 (中村弘之氏撮影)
壮大な地引網漁。動力船・無動力船が約100隻、漁夫400人が前夜から参加し、勇ましいフカとの戦いに酔いしれ34頭の収穫があった=苓北町 (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和34年07月16日
撮影:1959年7月
壮大な地引網漁=苓北町
浚渫船=八代市 (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和33年10月20日
撮影:1958年10月
浚渫船=八代市
茅刈り=八代市金剛。球磨川が八代海にそそぐ河口一帯は2メートル以上の茅が生えていた。漁に出入する船の障害にもなり、秋には伐り出され畜舎の屋根など珍重された (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和32年11月11日
撮影:1957年11月
茅刈り=八代市金剛。球磨川が八代海にそそぐ河口一帯は2メートル以上の茅が
若宮海水浴場=水澄町。八代の蛇籠港から「ポンポン船」で戸馳島まで出かけ、海水浴場で泳ぎ、砂の上で「スイカ」割りを楽しんだ。 (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和31年08月11日
撮影:1956年8月
若宮海水浴場=水澄町。八代の蛇籠港から「ポンポン船」で戸馳島まで出かけ、
舟おろし。新造船の「進水式」には大人も子供も一緒になって近くの海岸まで舟を運んだ=本渡市 (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和31年07月25日
撮影:1956年7月
舟おろし=本渡市。新造船の「進水式」
人吉雪景色。球磨川下りの発船場も雪景色 (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和30年01月21日
撮影:1955年1月
人吉雪景色。球磨川下りの発船場も雪景色 (麦島勝氏撮影)
水産研究船「倉中丸」進水式=倉岳村 撮影日:昭和29年09月03日
撮影:1954年9月
掲載日:2012-11-29
【くまもと昭和を歩く45】 水産研究船「倉中丸」進水式=倉岳村 昭和29年
牛で麦運び=御船町。農村の牛馬は、家族の一員として農作業で働いた。まだ農業機械も無く運搬でも力を出した (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和29年05月01日
撮影:1954年5月
牛で麦運び=御船町。農村の牛馬は、家族の一員として農作業で働いた。まだ農
砂利運搬船=八代市。山岳地帯から発した球磨川は、上流から砂利や砂を運び八代に堆積する。砂利は、サイズ別にふるい分けられ「ダンベ船」で各地に運んだ (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和26年07月14日
撮影:1951年7月
砂利運搬船=八代市。山岳地帯から発した球磨川は、上流から砂利や砂を運び八
金剛干拓の堤塘工事。堤汐止の堤塘工事用の砂利、砂、セメント、型枠などはダンベ船で運ばれた=八代市 (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和26年05月01日
撮影:1951年5月
金剛干拓の堤塘工事=八代市
ダンベ船=八代市。球磨川萩原橋から前川橋下流まで砂利すくい船や浚渫船で砂利をとり「ダンベ船」という大きな船に積み、各地に運搬。球磨川の丸石として珍重された (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和25年10月01日
撮影:1950年10月
ダンベ船=八代市。球磨川萩原橋から前川橋下流まで砂利すくい船や浚渫船で砂