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6・26熊本大水害 白川の増水で川沿いの家屋が次々に流され始めた=熊本市の代継橋付近、26日午後3時ごろ
撮影:1953年6月
6・26熊本大水害 白川の増水で川沿いの家屋が次々に流され始めた=熊本市の代継橋付近、26日午後3時ごろ
町名小史・田迎町 田迎地区の農業の基礎を築いたのは、加藤清正がかんがいのために造った「二の井手」である。二の井手は白川渡鹿ゼキから分かれて田迎を貫流、御幸木部町で加勢川に流れている。
明治22年の町村制施行で田迎村、出仲間村、田井島村、良町村が合併して田迎村になり、昭和28年に熊本市に編入されている。
県道熊本―宮崎線は細川時代に熊本城下の「新一丁目御門」を起点とする日向街道で、豊臣秀吉が薩摩征伐を行った時、熊本方面から通過したという言い伝えもある。=熊本市 撮影日:平成15年03月27日
撮影:2003年3月
二の井手にコイを放流する田迎まちづくり委員会のメンバーら
生徒会選挙 ”おねがいします”=熊本市の白川中学校 撮影日:昭和44年03月01日
撮影:1969年3月
生徒会選挙 ”おねがいします”=熊本市の白川中学校
生徒会選挙 立候補者のポスター張り=熊本市の白川中学校 撮影日:昭和44年03月01日
撮影:1969年3月
生徒会選挙 立候補者のポスター張り=熊本市の白川中学校
白川から取り込まれた農業用水=南阿蘇地方 撮影日:昭和37年02月23日
撮影:1962年2月
白川から取り込まれた農業用水=南阿蘇地方
町名小史・二本木町 「祇園山(花岡山)から二本木見れば、自由廃業でなんとしょ、金はなかしま家も質(楼主中島茂七)、東雲(しののめ)のストライキ、さい(帳場斎藤)とはつらいね、てなことおっしゃいましたかね」-の歌で知られる遊郭地帯だった。明治32年、東雲楼の遊女たちが自由廃業届けの挙にでた。結局は遊女側の敗北に帰したが、この東雲節で、二本木の名は一躍有名になった。二本木には平安時代に「二本木国府」が置かれた。地名の起源は、国府鎮護の護国寺の裏門近くに二本の木があったから、という説がある。明治4年の廃藩置県による県庁が古府中の二本木に新築され「白川県庁」と称していた。明治9年2月「熊本県」の改定とともに「古城」内に移転。白川公園、行幸町、出水町今(現・水前寺6丁目)と四転した。写真は東雲楼屋敷跡。さしもの名園も昔の面影はない=熊本市二本木町 撮影日:昭和34年8月19日
撮影:1959年8月
東雲楼屋敷跡 さしもの名園も昔の面影はない=熊本市二本木町
016・26熊本大水害 国鉄豊肥線白川第二鉄橋が完成、通過する機関車=熊本市黒髪町竜田
撮影:1954年6月
国鉄豊肥線白川第二鉄橋が完成、通過する機関車=熊本市黒髪町竜田
白川改修大綱決定へ、建設省が九地建と検討 白川の除砂作業=熊本市内
撮影:1954年2月
白川改修大綱決定へ、建設省が九地建と検討 白川の除砂作業=熊
186・26熊本大水害 白川の増水で浸水し始めた通り。声を掛け合う住民=熊本市本荘町川端通り、26日午後3時ごろ
撮影:1953年6月
186・26熊本大水害 白川の増水で浸水し始めた通り。声を掛け合う住民=熊本市本荘町川端通り、26日午後3時ごろ
216・26熊本大水害 白川の増水で川岸の家が濁流に流され始めた=熊本市本荘町の代継橋付近、26日午後3時ごろ
撮影:1953年6月
216・26熊本大水害 白川の増水で川岸の家が濁流に流され始めた=熊本市本荘町の代継橋付近、26日午後3時ごろ
236・26熊本大水害 白川の濁流は古町一帯に浸水した。道路は削り取られ家々は傾いてきた=熊本市古町、26日午後5時ごろ
撮影:1953年6月
236・26熊本大水害 白川の濁流は古町一帯に浸水した。道路は削り取られ家々は傾いてきた=熊本市古町、26日午後5時ごろ
6・26熊本大水害 危険状態に入る白川橋=熊本市本山町
撮影:1953年6月
6・26熊本大水害 危険状態に入る白川橋=熊本市本山町
白川での水防訓練 渡河橋を渡る小学生ら=熊本市迎町の泰平橋上流 撮影日:昭和37年05月30日
撮影:2004年6月
白川での水防訓練 渡河橋を渡る小学生ら=熊本市迎町の泰平橋上流
明治期 南千反畑(白川公園)時代の熊本県庁 ※写真集・熊本100年より
撮影:1970年1月
明治期 南千反畑(白川公園)時代の県庁 ※写真集・熊本100年より