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刺し網干し=相良村。川辺川と球磨川が合流する地点は鮎漁の絶好のポイント。「刺し網」は夜に張るが、昼間はその準備に忙しい。 (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和45年07月18日
撮影:1970年7月
刺し網干し=相良村。川辺川と球磨川が合流する地点は鮎漁の絶好のポイント。
球磨川全域が豪雨にに見舞われた。八代市の荻原町の堤防決壊で民家が流出し、国道3号も大混乱した (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和40年09月24日
撮影:1965年9月
球磨川の洪水=八代市
踏み切り待ち=八代市。八代駅から貨物専用の球磨川駅へは1日数回の貨物列車が通った。その間、いそがしい通行人もがまんしながら待ってくれた (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和40年09月02日
撮影:1965年9月
踏み切り待ち=八代市。八代駅から貨物専用の球磨川駅へは1日数回の貨物列車
ボート遊び。球磨川発船場の対岸、水の手橋近くに手こぎボートが係留され、若いカップルが楽しげにオールを漕いでいた=人吉市 (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和40年08月05日
撮影:1965年8月
ボート遊び=人吉市留
洪水時の旧萩原橋=八代市。梅雨前線が停滞し、球磨川全域で豪雨が降った。旧萩原橋近くの堰堤が決壊、豊国旅館が流出し交通が混乱した (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和40年07月03日
撮影:1965年7月
洪水時の旧萩原橋=八代市。梅雨前線が停滞し、球磨川全域で豪雨が降った
球磨川水源=水上村。水源地(別写真・同日撮影分)から150メートルほど下ると、ここにも「球磨川水源」の表示がある (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和40年05月03日
撮影:1965年5月
球磨川水源=水上村
球磨川水源=水上村。九州山地の中央部、標高約1200メートルの急峻な山の斜面から吹き出している。 (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和40年05月03日
撮影:1965年5月
球磨川水源=水上村。九州山地の中央部、標高約1200メートルの急峻な山の
稚鮎すくい=八代市。春になると海から鮎の稚魚の群れが、川に帰り上流へ遡上(そじょう)する。それを堰が阻むので、球磨川の遙拝瀬で漁協員が網ですくい、上流に運んで放流した (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和40年03月21日
撮影:1965年3月
稚鮎すくい=八代市。春になると海から鮎の稚魚の群れが、川に帰り上流へ遡上
船出浮=八代市。八代市中島町の前川橋の上流から出発した舟出浮の舟は10隻くらいが1団となり球磨川河口付近で投網して楽しむ。 (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和40年03月12日
撮影:1965年3月
船出浮=八代市。八代市中島町の前川橋の上流から出発した舟出浮の舟は10隻
球磨川下り=球磨村。軋む船べり、ガッガッと舟底は岩を噛む。船頭は満身の力を櫓に込めて自然の力を巧みに操る (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和38年05月05日
撮影:1963年5月
球磨川下り=球磨村。軋む船べり、ガッガッと舟底は岩を噛む
川下り=人吉市。急流球磨川下りの出発には、安全祈願のため水神さんにお供えした水を各舟にふりかける風習が今も続いている (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和38年03月10日
撮影:1963年3月
川下り=人吉市。急流球磨川下りの出発には、安全祈願のため水神さんにお供え
進水式=八代市。八代市の櫻井造船所は住吉神社の隣にあった。進水式は球磨川であり、多数の大漁旗がたなびき、餅まきが行われた。 (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和36年09月05日
撮影:1961年9月
進水式=八代市。八代市の櫻井造船所は住吉神社の隣にあった。進水式は球磨川
旧萩原橋=八代市。急峻な球磨川の遥拝堰下流は、川幅が広くなり流れもゆるやかになる。右岸には豊国旅館が残っている (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和35年05月15日
撮影:1960年5月
旧萩原橋=八代市。急峻な球磨川の遥拝堰下流は、川幅が広くなり流れもゆるや
球磨川一週駅伝=坂本村。八代宮前から国道219号沿いの球磨川流域を人吉市まで走る駅伝競走が行われた。折からの雪にも負けず選手も観衆も一生懸命に走り、声援を送った (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和35年01月15日
撮影:1960年1月
球磨川一週駅伝=坂本村。八代宮前から国道219号を人吉市へ
球磨川一週駅伝=球磨村。雪にも負けず郷土の山道を走る。オート三輪の中からも仲間たちの声援がたえない (麦島勝氏撮影) 撮影日:昭和35年01月15日
撮影:1960年1月
球磨川一週駅伝=球磨村。雪にも負けず郷土の山道を走る