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昭和59年・三井三池有明鉱で火災 1月18日午後1時50分ごろ坑内火災が発生、死者83人の惨事となった 撮影日:昭和59年01月18日
撮影:1984年1月
昭和59年・三井三池有明鉱で火災
昭和39年 権現山炭鉱、給料袋に顔をほころばす主婦=当時の魚貫村 ※熊本市の小杉冨士雄さん撮影、天草市の吉川茂文さん提供
撮影:1964年1月
昭和39年 権現山炭鉱、給料袋に顔をほころばす主婦=当時の魚貫村 ※熊本
くまもと建築遺跡めぐり・烏帽子坑 煙が出ない高品質の「無煙炭」として日本海軍の軍艦燃料に重宝され、明治から大正時代に最盛期を迎えた天草地方の炭田。当時の面影を現在に伝えるのが、天草市牛深町下須島沖の「烏帽子(えぼし)坑」の坑口跡だ。
牛深町宮崎の漁港から船で約10分ほど下須島の西海岸沿いを航行、陸地から約200メートルの海上に坑口を開けた烏帽子坑が浮かんでいた。坑口から坑道が海の中へと傾斜して曲線を描く形は、海上に鎮座する獅子の背中にも見えた。
烏帽子坑は1897(明治30)年、天草炭業が開坑。無煙炭を軍事用に採掘したが、排水の処理がうまくいかなかったため、数年後に閉坑となった。坑口は縦横2メートルで5層の赤レンガと砂岩を組み合わせている。背後に、岩礁を利用した石組みの防波堤(長さ50メートル、高さ6メートル)があり、坑口を守っている。
天草地方の炭鉱で働いていた地元の高齢者は「劣悪な労働条件で、つらい思い出もあるが、天草の炭鉱の歴史を後世に伝えるためにも残してほしい」と話した。打ち寄せる波に襲われながら立ち続けてきた烏帽子坑の姿は、そんな声に必死に応えようとしているようだった。=天草市牛深町の下須島沖 撮影日:平成18年07月14日
撮影:2006年7月
波が打ち寄せる烏帽子坑の坑口(左)。右は防波堤=天草市
昭和38年・三池炭鉱三池鉱で炭じん爆発 458人が死亡、800人がCO中毒にかかった。 熊本50年・昭和史年表より 撮影日:昭和38年11月09日
撮影:1963年11月
昭和38年・三池炭鉱三池鉱で炭じん爆発 458人が死亡
明治22年 発足した三池炭鉱社 ※写真集・熊本100年より
撮影:1970年1月
明治22年 発足した三池炭鉱社 ※写真集・熊本100年より
明治期 発足当時の三池炭鉱首脳陣 ※写真集・熊本100年より
撮影:1970年1月
明治期 発足当時の三池炭鉱首脳陣 ※写真集・熊本100年より
昭和38年11月 三井三池三川鉱で炭じん爆発。救出 ※写真集・熊本100年より
撮影:1963年10月
昭和38年11月 三井三池三川鉱で炭じん爆発。救出 ※写真集・熊本100
昭和38年11月 三井三池三川鉱で炭じん爆発 ※写真集・熊本100年より
撮影:1962年10月
昭和38年11月 三井三池三川鉱で炭じん爆発 ※写真集・熊本100年より
昭和5〜6年ごろ 旭炭鉱の鉱口、芦刈橋付近。当時は国産トラックはなくシボレー、フォードが使われていた ※天草市河浦町の高松昭次郎さん提供
撮影:1930年1月
昭和5〜6年ごろ 旭炭鉱の鉱口、芦刈橋付近。トラックはシボレー、フォードが使われていた
【入選】明治40年ごろ 志岐炭鉱の汽車による送炭。富岡まで鉄道が敷かれていた。 ※岡部五十四氏撮影、天草市の鶴田八洲成さん提供、「天草古蹟産物写真帖」より
撮影:1907年1月
明治40年ごろ 志岐炭鉱の汽車による送炭。富岡まで鉄道が敷かれていた。
明治9年ごろ 三池大浦鉱の石炭運搬風景 ※写真集・熊本100年より
撮影:1970年1月
明治9年ごろ 三池大浦鉱の石炭運搬風景 ※写真集・熊本100年より
三井鉱山の専用鉄道=荒尾市 撮影日:昭和37年03月05日
撮影:1962年3月
三井鉱山の専用鉄道=荒尾市
工事が進む炭鉱電車のガードかさ上げ=荒尾市 撮影日:昭和37年04月29日
撮影:1962年4月
工事が進む炭鉱電車のガードかさ上げ=荒尾市
三井鉱山四山鉱一帯=荒尾市 撮影日:昭和37年03月05日
撮影:1962年3月
三井鉱山四山鉱一帯=荒尾市