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町名小史・黒髪町 熊本大学の森に今も明治のかおりを残す旧五高の赤レンガ。へい衣破帽の竜南健児に代わってキャンパスでは現代の若者たちが語り合う。北側には緑が美しい立田山、時代が変わっても、文教都市熊本の特徴的風景がここにはある。“立田山から飛び立つ鳥は、鳥は鳥でも天下鳥(取り)”とか“立田・五高は不思議なところ、月が照るのに雨が降る”など、学生たちは放歌高吟した。明治29年、四国・松山中学から五高に赴任してきた夏目漱石は上熊本駅から人力車で京町台を下りながら、立田山方面を見てつぶやいた「ああ森の都だ」。この立田山の山ろくに広がる古い町並みが黒髪町。写真は明治20年の建物が現存する五高記念館=熊本市の熊本大学 撮影日:平成17年12月05日
撮影:2005年12月
明治20年の建物が現存する五高記念館=熊本市の熊本大学
国鉄熊本駅の駅前広場と市電通り。右手に春日町商店街=熊本市 撮影日:昭和37年08月16日
撮影:2004年6月
国鉄熊本駅の駅前広場と市電通り。右手に春日町商店街=熊本市
店先を町屋風に改修した人吉市鍛冶屋町の鍛冶工場 撮影日:平成17年03月29日
撮影:2005年3月
店先を町屋風に改修した人吉市鍛冶屋町の鍛冶工場
保存修復が進んでいる土蔵白壁が立ち並ぶ本通り商店街を歩く「松合の町並み保存会」の役員たち=宇土郡不知火町 撮影日:平成16年11月25日
撮影:2004年11月
保存修復が進んでいる土蔵白壁が立ち並ぶ本通り商店街を歩く「松合の町並み保
ボーナス景気でにぎわう上通商店街=熊本市 撮影日:昭和37年12月16日
撮影:2004年8月
ボーナス景気でにぎわう上通商店街=熊本市
山鹿市商店街 撮影日:昭和37年12月18日
撮影:2004年8月
山鹿市商店街
大雨で増水した白川の代継橋付近=熊本市本荘町 撮影日:昭和36年6月9日
撮影:1961年6月
大雨で増水した白川の代継橋付近=熊本市本荘町
町名小史・上通町 昭和40年4月、以前の上通町、桜井町、長安寺町の大部分と、手取本町、黒鍬町、城東町、上林町、一本竹町、草葉町の一部を集めて上通町となった。
この通りは池田・西里方面にの延び、地図上で上に延びていたので「上通り」と呼ばれた。
一方、木山街道に延びる通りが下になるので「下通り」となった。
旧藩時代は下級武士の屋敷地帯で裏通りには小者(もの)の家が密集していた。西南の役で全焼した頃は120戸、800人ほどの町だったという。
大正13年の市電開通で一気に商業の中心地となる。上通は五高生の町でもあった。七高(鹿児島)との野球試合の後は、デモンストレーションがこの通りを大きく流れ、看板をはがしたり、ガラスを割ったりしたというが、町民たちは「学生さんのことだから」と、笑って済ました。 撮影日:2005/07/16
撮影:2005年7月
通りには縁日コーナーも設けられ、にぎわった城下町くまもとゆかた祭
町名小史・新町 新町は加藤清正がつくった“新市街”である。清正は都市計画の中で侍町と町人町に分けた。町人町は、飽田国府(二本木町)の商家を移して城の正面(西側)に建設、これを新町と呼んだ。清正の新城下町づくりでできた町には、住民の職業で付けられた町名が多い。後年の細川藩時代の記録によると、新町一帯は新魚屋町、新馬借町、新桶屋町、桧物(ひもの)屋町、塩屋町、新鳥屋町、瓶(つかめ)屋町、上・中・下職人町、新細工町のほか、清正の朝鮮の役ゆかりの蔚山町、高麗門の名がみえる。
昭和40年11月、従来の職業を付した町名は改正され、新町1丁目から4丁目までにかわった。 撮影日:2004/06/22
撮影:2004年6月
一新校区の街並み=熊本市新町
昭和39年・「阿蘇青年の家」開所 若人の研修施設として阿蘇山ろく小堀牧に建設された。 熊本50年・昭和史年表より 撮影日:昭和39年05月24日
撮影:1964年5月
昭和39年・「阿蘇青年の家」開所
建設中の九州新幹線新玉名駅。写真右下部分に観光交流施設が設置される=玉名市 撮影日:平成21年08月25日
撮影:2009年8月
掲載日:2009-08-27
建設中の九州新幹線新玉名駅。写真右下部分に観光交流施設が設置される=玉名市
町名小史・下通 上通と新市街を結ぶタテの線と、東部から市中に入る安巳橋通りがヨコに交差する地の利を得て、商店街が生まれた。大正13年の市電開通と、戦災後の衣替えで、上通と肩を並べる街に発展した。
昭和40年4月の町名変更で、下通町、相撲町、光琳寺町の大部分、上・下追廻田畑町、鷹匠町、駕町、楠町、手取本町の一部が「下通1丁目」。仲間町、西岸寺町の全域、下通町、五十人組町、知足寺町、の大部分、楠町、新鍛冶屋町の一部が「下通2丁目」になった。
上・下追廻田畑町には馬追い回しの調練場と藩の試作田畑があった。仲間町、五十人組町、駕町は城下町当時、仲間や小者(もの)五十人、お駕(かご)衆といった人たちの団地だったが、町名は消えた。 撮影日:2005/08/06
撮影:2005年8月
熊本市の中心市街地で開かれている「ストリート・アートプレックス」
昭和41年 荒尾市の菜切川に架かっていた木造の今寺橋。小学生の通学路でもあったが所々に穴が空き危険がいっぱい。この翌年にコンクリート橋に架け替えられた=荒尾市川登今寺 ※荒尾市川登の川上偉さん提供
撮影:1966年1月
昭和41年 木造の今寺橋を登校する小学生=荒尾市川登今寺 ※荒尾市川登の
昭和29年 熊本大水害で流出した代継橋の架橋工事。写真提供の上妻さんの農地も水害の被害を受け、2年間農業ができなかったという。生活を支えるため地域の人とともに工事に従事、木造の仮橋が完成した=熊本市 ※熊本市城山大塘の上妻熊夫さん提供
撮影:1954年1月
昭和29年 熊本大水害で流出した代継橋の仮橋の架橋工事=熊本市 ※熊本市
熊本市電80周年 橋脚が減りコンクリート橋になった大甲橋を、今も市電が渡る=熊本市 撮影日:平成16年08月03日
撮影:2004年8月
熊本市電80周年 橋脚が減りコンクリート橋になった大甲橋を、今も市電が渡