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バス停の児童=熊本市手取本町の市役所前 撮影日:昭和39年05月09日
撮影:1964年5月
バス停の児童=熊本市手取本町の市役所前
湯治に訪れたお年寄りたち。バス停まで見送り=阿蘇郡長陽村の垂玉温泉 撮影日:昭和39年04月27日
撮影:1964年4月
湯治に訪れたお年寄りたち。バス停まで見送り=阿蘇郡長陽村の垂玉温泉
九州産交の瀬の本バス停=阿蘇郡南小国町 撮影日:昭和37年10月06日
撮影:1962年10月
九州産交の瀬の本バス停=阿蘇郡南小国町
行楽客でにぎわう九州産交中央営業所=熊本市辛島町 撮影日:昭和36年07月22日
撮影:1961年7月
行楽客でにぎわう九州産交中央営業所=熊本市辛島町
乗降客でにぎわう九州産交の中央バス停留所=熊本市辛島町 撮影日:昭和36年5月14日
撮影:1961年5月
乗降客でにぎわう九州産交の中央バス停留所=熊本市辛島町
朝の出勤風景=熊本市花畑町 撮影日:昭和36年3月8日
撮影:1961年3月
朝の出勤風景=熊本市花畑町
町名小史・京町 熊本城のある茶臼山から北へ続く丘陵地帯。通称「京町台」には加藤清正の時代、城下町として武家屋敷や商家が並んだ。当時のなごりをとどめる地名に「柳川小路」がある。京町本丁の旧国道3号から東の一角、バス停にも柳川の名がある。このあたりは「関ケ原」のとき西軍だった柳河藩を、東軍の清正が藩士を引き取って住まわせたと伝えられる。西南の役で城が炎上した時、京町一帯も延焼した。町の名の由来は、一説には経文を埋めた碑があり「経塚」と呼ばれていたのが、いつしか塚が取れ、京町へ変化したともいう。京町本丁通りは、旧藩時代は”二階家通”といわれた街道だった=熊本市 撮影日:昭和34年8月17日
撮影:1959年8月
京町本丁通り、旧藩時代は”二階家通”といわれた街道だった=熊
歳末のにぎわい、辛島町中央バス停=熊本市
撮影:1958年12月
歳末のにぎわい、辛島町中央バス停=熊本市
町並み 神社の鳥居、バス停などが見える=阿蘇郡馬見原町
撮影:1954年1月
町並み 神社の鳥居、バス停などが見える=阿蘇郡馬見原町
096・26熊本大水害 国鉄高森線の不通で混雑する高森中央バス停留所=阿蘇郡高森町
撮影:1953年7月
096・26熊本大水害 国鉄高森線の不通で混雑する高森中央バス停留所=阿蘇郡高森町
バス停、ガソリンスタンド。熊本市内 (楠田宗光氏撮影) 撮影日:昭和13年10月22日
撮影:1938年10月
バス停、ガソリンスタンド。熊本市内 (楠田宗光氏撮影)